創立5周年記念号 第11号 1997年12月20日


主な内容
北米巡回布教を通して
間違いのない仏法を伝え、人の誓願のもとに

愛知専門尼僧堂堂頭 青 山 俊 董

 13年ぶりにアメリカを再訪する機会を得、半月の間に15ヶ所の禅センターや大学等で、彼の地の熱心な求道者達と共に、参禅し提唱し、あるいは仏法について、禅について語りあってきた。

 12年前、彼の地を訪ねたときは、鈴木俊隆老師こそ遷化されておられたが、奥さまがしっかりと後見しておられ、前角老師、片桐老師らが八面六臂の御活躍の最中であった。帰国の前日、サンフランシスコの金門橋のたもとに立ったとき、折しも夕日が天地を黄金に染めて真西に沈むところであった。侍者のべナージュ大円尼が、その夕日の方向を指さしながら叫んだ。

 「老師さま !あちらが日本です。仏法は今、日本からアメリカへ来つつあります。」私はこの言葉を心の奥深くに受けとめながら「仏法東漸」という言葉を思い、間違いのない仏法をアメリカへ伝えねばならないと、改めて日本仏教僧侶に課せられた使命の重大さを思ったことであった。

 13年後、再び彼の地を訪ね得た今日、すでに片桐老師、前角老師なく、弟子、孫弟子の時代となっていた。

 又この間に、たとえば日本で長く修行して帰国したべナージュ大円師や、内山興正老師の弟子、孫弟子達等、多くの方々の血のにじむような努力によって新しい道場が誕生し、育っていた。 一方、禅宗寺、桑港寺等、日本よりの移民の方々の心の支えとして出発した寺の役割は、当所の目的を終え、大きく方向転換すべきときを迎えているようである。アメリカ開教100年。移民邦人も三世の時代となり、ほとんどは日本語がしゃべれなくなったばかりではなく、物の考え方もアメリカナイズされてきて、先祖を祀る菩提寺なるがゆえに、というだけでは足は向けられなくなってきた。国境を越え、人種を越えて、人生の真実の生き方を問う参禅問法の道場へと、一日も早く脱皮せられんことを切望するものである。

 松尾芭蕉に不易と流行という言葉がある。不易とは、変ってはならない一点、真理そのもののことである。 この一点を変えたら仏法ではなくなるというその一点は、時と処を越えて永遠に相続されてゆかねばならない。流行の方は時と処に応じて変幻自在に展開されるべき一面のことである。

 インドの仏法が、玄装三蔵を始め多くの方々の努力によって中国に伝わり、消化され、中国的展開をし、更に1500年前、日本に渡来した。直輸入時代の奈良朝を経て、仏法が真に日本的展開を遂げる鎌倉期までに700年の歳月を要している。その背景には鑑真和尚を始め多くの高僧達を唐土より迎え、あるいは間違いのない仏法を、禅を求めての入唐、入宋などの努力が限り無く、くり返されたのである。

 同じ問題が、今アメリカと日本の間に問われている。 アメリカに仏法が渡って100年。荒地が拓かれ、種が蒔かれ、芽生え、苗が育ち始めた段階といえよう。拓き種まきをした方々はすでに亡く、育った苗たちを間違いのない仏法の木として成長させてゆくためには、心ある日本の仏教者の、禅者の、本腰を入れての惜しみない応援が、見守りがないといけない。拓かれた地はいまだ仏法の土壌としては豊かならず、導いてくれる先達も少ないままに、これらの苗は軌道をはずれ、はずれたことにも気づかずに伸びるか、あるいは立ち枯れしかねない恐れがある。

 私事にわたって恐縮ながら、私はこの道に入り、さいわいに修行道場の堂頭という立場のお陰で、まがりなりに一筋に修道生活をさせていただいてすでに50年の歳月が過ぎた。さいわいによき多くの師家に参りつつ半世紀をかけて、ようやくに仏法の入り口に立ち得た思いである。5年や10年の研鑚で広大深遠な仏法がわかってたまるか、の思いであり、道元禅師のおっしゃる「道無窮」の思いひとしおの昨今である。

 平等山禅堂での摂心が終った日、一人の参禅者が真剣に質問してきた。  「これからの平等山禅堂の僧伽のあり方について、老師の望まれるところは?」  私は答えた。  「一人では修行できない。志を同じくする僧伽を育ててゆかねばならない。しかしその在り方は垣根をつくらないこと、色づけをしないこと、透明な僧伽のあり方であってほしい。 垣根でしっかり守られていたほうが、色づけがあったほうが、仲間同志の結びつきは固くなり、あるいは中にいるものは、そのグループの中にいるというだけで安心感があるかもしれないが、それは言葉を変えればグループ呆けというもの。それではいけない。しかも垣根や色づけがされているところへは第三者は入りにくい。  いつでも、誰でもが、わが家へ帰るような思いで出入りできる、そういう在り方の増伽を築いてほしい」と。

 同じことをアメリカ各地の禅道場に向って叫びたい。どれほどに柔軟な姿勢で、どれほどの歳月をかけて学んでも、はるかにはるかに及ばない、仏法という、禅という広大深遠な相手に対し、互いに自分の貧しさを自覚し、謙虚に学びあい、補いあいつつ、間違いのない仏法をアメリカに伝え、消化し、あせらずに時間をかけてアメリカ的展開の道を探ってほしい。

 伝える日本側にしても、釈尊より2500年、多くの祖師方の限りない御努力によって連綿とお伝えいただいた正伝の仏法を、禅を、間違いのないものとしてアメリカに、ヨーロッパに伝える使命の重大さを、同時に手本としての日本本土にあっての僧侶の在り方を真剣に問わねばならないと思うことである。


青山俊董老師
「北アメリカ布教の旅」に随行して

東京・観音庵副住職 笹 川 悦 導

 去る10月15日より31日までの半月間、愛知専門尼僧堂堂頭、青山俊董老師「北アメリカ布教の旅」の随行をさせて頂く御縁に恵まれた。

 老師の 「布教の旅」は、「アメリカに於ける女性の禅指導者を支援する会」を発足させて、ベナージュ・大円尼師が開く平等山禅堂を訪ねることを主目的とし、4月に開設された北米開教センターの懇情による日程計画に従い、ロスアンゼルス、ベンシルバニア、ノーサンプトン、ボストン、サンフランシスコと西から東または西へとアメリカ大陸を一往復しての行程であった。

 強行なスケジュールの中、老師はお疲れも見せず5分でも10分でも多くの人々に仏法を伝えたい道念に意欲を燃され、各地で大きな感動と反響をよび、そして鋭い数多の質問を受けるという、実り深い充実した内容の旅であった。

 ことに私は、初めて観るアメリカの風土と環境、社会そしてさまざまな人種、何の予備知識も持たずしての老師のお伴でしたが、行く先々で出会わせて頂いた開教諸師の仏法に対する真摯な求道意欲と、自らをきびしく律しておられる姿勢に、日本仏教の曹洞宗侶としての日々の生活を根本改革しなければならない思いにかられると同時に、この方々ありてのアメリカ禅仏教を痛感せずにおれなかった。

 また禅仏教を通して心の癒し、依り処、生き方を求めるアメリ力人の3分の2が女性であることと、サンフランシスコを中心に尼僧さんの多いことに女性の精神的な自立と、女性による女性の本格的な禅指導者を育てねばならない必要性を感ぜずにおれなかった。すぐ迎える21世紀のアメリカは、女性が禅仏教のリーダーとなって美しい花を咲かせていく方向性がみえている。 しかしどのように展開していくのか一抹の不安と考慮すべき問題を残していることも現実であり、課題のひとつである。 老師の巡回先を振り返りながら、平等山禅堂に焦点を当てて述べてみたい。

ロスアンゼルス

 10月15日ロスアンゼルスでは、北米開教センター書記の横山泰賢(広島山身)開数師と青山老師の茶の湯のお弟子でロスアンゼルスに赴任中の村山氏が出迎えて下さり、禅宗寺拝登。山下顕光元開教総監に拝謁し、隣接する北米開教センターへ挨拶。夕刻、ロスアンゼルス100万ドルの夜景を一望できるタワーレストランにて開教センター主催による歓迎夕食会。

 2日目は、前角博雄老師が開設されたロスアンゼルス・禅センターを拝登。監寺役の慧玉尼さんの案内で堂内を拝観。広々とした禅堂は常時30名の坐蒲が用意してあり、毎月出家在家を問わず訪れる人が自由に修行できるようにしてあるという。

 前角老師の御遺骨が肥ってある開山堂を詣で、別棟に集まっていた20名の参禅者と日本からのお土産として持参した「志野・織部」という菓子で抹茶を一服頂いた。この菓子の袋には、老師の墨跡、円相がデザインされており、この円相の意味を横山師の通訳で説明され、楽しい茶話会であった。中には「今日老師にお会いしたらいろいろ質問しようと思っていたが、わずか3、40分の話の中で、その質問がすべて解けました」と感激している人の姿があった。

 この日の夜はロスアンゼルス茶道連盟の茶の湯の先生方50名によるお茶会がホテルニュー・大谷のクワィエットホールで開かれた。茶会の後「禅と茶のかかわり」について老師は1時間ほどお話をされ、その内容は「飯に遇ては飯を喫し、茶に遇ては茶を喫す」という背景が茶道の基本となっていること。利休の茶は無常を楽しむ芸術。無常は悲しいものでなく、無常なればこそ樹々が芽ぶき、青葉若葉となり、秋は紅葉し葉が落ちる、という自然の摂理なのだというお話に、一同熱心に聴き入っていた。茶の点前論議はしていても、精神的なお話を聞くのは、はじめてという先生方にとっては、師家であり茶の湯の指導をされておられる老師に親近感を持たれたようである。

 ロスアンゼルスの最後の夜は、老師の新刊「花雨情」のサイン会になったり、記念写真を撮るなどして大いに盛り上がった。

平等山禅堂(マウント・エクイティ)

 10月17日(金)、老師と私と横山開教師の3人は、ロスアンゼルスを後にしてフィラデルフィアへ向った。時計の針を3時間進めて、夜9時半、12名乗りのセスナ機にやっと乗り継いで大円尼師の待つウィリアムズポ−トへ到着。

 小さな片田舎の飛行場であった。33度のロスアンゼルスから吐く息が真白。澄んだ空気に満天の星空の広がり、寒さに身を縮めながら出迎えの大円尼と3年ぶりの再開に涙して喜びあった。車で20分ほどの閑静な木立ちの中に平等山禅堂があった。時計の針はすでに12時を回って、今日の1日は空の客となって長かった。

 翌朝、心人れの玄米粥で朝食。10時半より2日間にわたるリトリート(ミニ接心)。車が次ぎつぎと到着し、遠い人はボストンより8時間、あとは4時間、5時間かけて来たという。25畳ほどの禅堂は35名が限度であって、70名の参禅申込者を2日間に分けてあった。

 殿鐘三会、七下鐘上殿と大円師の導師で開会の諷経が始まり、英語と日本語の入り混った読経と回向、堂行の鳴らし物、侍者の進退、宗門の行持をきめ細かに教育していた。

 一チュウの坐禅、経行を終え飯台。全員が応量器を使用する展鉢作法である。この日の昼食は、アメリカに24年在住し、永住権を取っておられる花巻山身の阿部義雄氏が、10日前にお姉さんを亡くされて、その供養にと典座をして下さった。ある雑誌で大円尼のことを知り、仏教と聞いて、お坊さんが懐かしくて車で4時間かけて訪ねて来たのが縁となったという。レストランで働いている腕を生かし、この日の午時供養はくるみと大葉の混ぜご飯、わかめと豆腐の味噌汁、ニンジンとブロッコリーの胡麻あえと、一汁一菜の禅堂食であるが、大変手の込み入った味付けに感動し、お姉さんの冥福を祈った。

 午後1時半より「十牛図」の提唱。牛年に因み修行の段階をわかり易く論理的に説明され、大円師と横山師の通訳に熱が入り参禅者は姿勢を正して食い入るように聴いていた。コーヒーブレイクをとりながら2〜3の質問を受けた。そして老師著述、大円師訳の「ZEN SEEDS」を参禅者がバイブルのように持参しており、その本に老師が美しい筆運びで禅語をサインすると、「ワンダフル」「ビューティフル」の歓声があがり充実した1日に大満足して日帰り参禅者は帰って行った。

 初日のリトリートを終え平等山禅堂の外へ出てみると3階建ての白いアパートであった。100年前の石壁の棟と増築された木造の棟とが1つになって9部屋あるという。そのうちの3部屋(1階、2階、3階)を大円師が賃貸し、1階を禅堂、2階オフィース、3階参禅者の為の宿泊所としていた。そして石壁の棟にはお母さんと弟さんが1部屋ずつ使って合計5部屋借りているという。

 2年前から売りに出ていて買い取りたい希望があったのだが、毎月の家賃ですら四苦八苦の現状で、とても資金がなく、今ではすでに新しい家主さんに変ってしまったという。

 ペンシルバニアは大円師の故郷であり、慣れた土地がらと日本の軽井沢にも似た環境は、禅堂には最適な場所であると思った。日系人皆無、禅仏教、日本文化など全く縁もゆかりもない処に、24年間アメリカを離れ、日本の尼僧の姿で帰って来た大円尼を見て、村の人達は窓を全部閉ざしたという。それから7年の歳月、人にそしられ、どなられ、軽べつされ、その中にあってお母さんが大円師の手となり足となって激励を繰り返し、そのお陰で信念をかえることなく一歩一歩、着実な歩みの成果が、今日このように大勢の参禅者が大円師のもとへ集うようになった。中には授戒得度した仏弟子が6人も育ち、坐蒲、応量器包、箸袋などは作務の時間に作られたという。

 アパートのペンキ塗り、室内のクロス張り、カーテンそして事務室のコンピューター等の諸設備は、みんな参禅者の奉仕と浄財によるものだった。参禅者は「毎日、時間の許す限り坐禅に通いたいのだが、遠すぎるのと交通便が悪いので、もう少し都会で道場を開いてほしい」という要望が出ていたが、大円師には今のところ、ここを離れる考えはない。ただもう少し禅堂が広ければと、日本からの支援を大変嬉しがられ、さっそく宗教法人認可の手続きをとって、来年には法人設立開単の運びにむけて、近くの売り地を買いたい希望を持っている。

 大円師の活動は平等山禅堂だけでなく、身障者の力ウンセリングや、近郊の刑務所に投獄されている死刑囚と熱心に坐ったり、2つの大学のサークルに坐禅指導を行っている。 2日目のリトリートを終えた夕方、近くにあるクェ−力教の集会所で、老師の話を聞きたい人達が40名ほど集まっていた。ペンシルバニアはウィリアム・ペンというイギリスのクェーカ教徒の開いた町だという。クェーカーは「幸福を探す」教えで、宗教宗派の壁を越えて「聖なる話」、「真実の言葉」を聞く耳を持っている人達の集まりだという。大円師も時々この集会所に招かれて道元禅師の教えを話されているそうだが、この夜も老師の1時間半にわたる「どう生きたらよいか」の法話を真剣に聴いていた。

 ノーサンプトン

 21日(火)、4泊5日御世話になった平等山禅党と大円師のお母さんにお別れし、空路ピッツバーグ経由でハートフォード空港に到着。バレー禅堂主任開教師の篠田一生師が出迎えて下さった。レンタカーを借りて横山師の運転でノ−サンプトンの町へ出た。街路樹が紅葉し美しい晩秋であった。この日の夕刻、藤田師が坐禅指導を行っているスミス女子大の小ホールで老師の講演会が予定されていた。

 この大学は世界の諸宗教の指導者を時折招いて宗教講座が開かれており、これもひとえにこの大学で教鞭をとっておられ、日本の浄土真宗の僧籍をもつ海野教授のはからいであった。 老師は「私の頂いた仏法」と題して大図師、海野教授、藤田師の3人の通訳にて1時間半ほどお話をされた。 翌日バレー禅堂を拝登。人里離れた山中の禅堂は樹木の半分が落葉して、きびしい自然と簡素な生活の中で、只管打坐に打ち込む藤田師に、良寛や山頭火を思い浮かばせるものがあった。この日のバレー禅堂に初雪が舞い、奥さんの尚美さんが早朝より皮をむいて炊いて下さった栗ご飯のぬくもりがいつまでも残っていた。

 23日(木)ノーサンプトンからレンタカーで走ること約2時間半、アメリカの古都ボストンに着いた。ここではボストン在住の池田永晋開教師が待っていてくれた。 ボストンでは池田師が率いるピーン・タウン・サンガという参禅会のグループとハーバード大学の小講堂で老師の講演。

サンフランシスコ

 25日(土)、藤田、池田の両開教師とお別れして、時計の張りをまた3時間もどして最終目的地のサンフランシスコに到着。空港にはサンフランシスコ禅センターの堂頭、春望・ブランテー・ハートマン尼師と孝開尼(アメリカン)が母迎えて下さった。春望尼師は着物に改良衣、絡子の日本僧と同じ身支度に頭髪は七部刈りで、厳格な中にも慈愛が棲み出ている方であった。 禅センターはペイ・ウインドウの建物が立ち並ぶ住宅街の一角にあった。コートヤードという中庭を囲んで、本堂、坐禅堂、食堂、宿舎を備えもつ大きな建物であった。ここで2泊3日拝宿させて頂き、役寮のポストをもっている2〜3人の尼僧さん方と少し触れ合うことができた。この禅センターは、タサハラ、禅センター、グリーン・ガルチという3つの道場の中心であり、自給自足の大規模な運営方針に禅センターのイメージが変 わった。

 なぜならば、平等山禅堂、バレー禅堂、ビーン・夕ウン・サンガと“貧しさ”の中にこそ輝いている坐禅の姿を見てきたからだ。 このセンター4年前から選挙によって堂頭が決められ、はじめて尼僧が堂頭になった。ゆえに役寮のほとんどは女性で、過去の複雑な諸問題はすべて解消され、今はうまくまとまっているという。男性、女性、僧格が共同生活をするということは、アメリカの法律下にせよ堂頭の力量が期待される。

 26日(日)、海辺に近いグリーン・ガルチ・ファームに於て坐禅と老師の提唱があった。  日曜日とゴールデン・ゲイト・ブリッジや国立レクリエーション地域となっている環境もあって、禅堂に入る人の長蛇の列が続く。ここでSOTO禅インターナショナル事務局員の飯島尚之師(東京)、浅井宣亮師(愛知)そして尺八の名手・鈴木道雄師(秋田)の3人が激励と応援にかけつけて下さって、肉親に会えた嬉しさであった。 250名が入った大きな禅堂は、閑坐一点の世界であった。40分の坐禅を終えて、老師の提唱は「置かれている場所は何処でもよく、どう生きるか! 人生の目的は長生きすることでなく、よく生きることだ。よく生きるとは今はよくないと気づかせて頂くことだ」という内容を具体例を出してわかり易く説かれ、結びは喜心、老心、大心の話でまとめられた。

 提唱のあと鈴木道雄師の尺八「奥州薩慈」の演奏にいまし望郷の念に募る。 翌日、オークランドある好人庵禅堂を拝登し、秋葉玄吾開教総監に挨拶。日本庭園を望む本格的な禅堂で、木の香りが新しかった。 総監の奥さん、好さんの点前にて一服頂戴し、太海の荒波に鎮座する童子観音のような人柄に、禅を行じている姿を見せて頂いた。 28日(火) カーメルという美しい避暑地を経由して、タサハラ禅マウンテンセンターを訪問。愛知専門尼僧堂に安居経験のある慈照尼師の運転する車からランドクルーザーに乗り換えて、峰を越え峠を越えて約1時間、谷間に禅センターがあった。

 ここはカリフォルニアで最も古いリゾート地として知られ、温泉が湧き出ていた。年2回行なわれる3ヶ月安居の最中で、約70名の安居者は老師の提唱を待っていた。

 昼食後、老師は最終日程を済ませた法体をゆっくり温泉で癒され、夕刻サンフランシスコに戻り、桑港寺での法話の会にのぞんだ。 15日間、長いようで短かった「北アメリカ布教の旅」は、天候と体調に恵まれて予定どおり無事終了することができた。これもひとえに開教総監老師はじめ開教センター・スタッフの諸師、各巡回地で御世話をして下さった開教師、そして何よりもはじめから終りまで老師の心を汲みとって御同行、御案内役をして下さった横山泰賢師の御配慮と温かく限りない熱い求法の精神に支えられての旅であったことに感謝したい。


海外インフォメーション
    アウシュビッツでの平和祈念リトリート

盛岡市在住 板垣 光昭

 禅ピースメーカオーダー(ZPO)主催のアウシュビッツでのリトリートは11月11日よりポーランドのアウシュビッツで開催された。参加者は約100名でしたが、日本人の参加は4名でしたが、私を除く3名は何れも米国在住の方で日本からの参加は私一人でした。 リトリートのスケジュールはアウシュビッツの見学から始まった。第1収容所(いわゆるアウシュビッツ)は、現在は博物館になっていて、収容所時代の様々な史料が展示してある。それらの史料について、約半日にわたり専門の説明員から事細かに説明を受けた。史料の内容は、様々だったが、収容された人々の顔写真、収用時に押収された物品(鞄、靴、義足等)、収容後に収容者から刈られた頭髪(30畳くらいの広さに山積み)、その頭髪によって綴られた布などがとても印象的だった。一通り見学した後に、処刑の壁の前でユダヤ教のラビによる供養を営んだ。カディッシュという儀式で内容的には宗教歌を中心にしたものであったが、イーディツシュ語で営なまれるので内容的なことは理解できなかったが、最中に感極まって泣き崩れる人、地面にひれ伏す人が多く、私もその感情に引き込まれて、胸が熱くなるのを否定できなかった。

 その後、バスで第2収容所のビルケナフに移動した。ビルケナフは、アウシュビッツよりはかなり広く、鉄道の引き込み線などがあって、よく写真で見かける強制収容所のイメージはこっちのことだなと思った。バラックは30数棟しか現存しておらず、後はバラックの中にある暖炉の煙突だけだった。バラックは長細く、中はとても薄暗く、真ん中の通路には長細い暖炉があるにはあるのだが、氷点下の中で生活するにはあまりにも心もとないものだった。一通りの見学が済んで門の前でランチを頂いた。小さなプラスチック容器に一杯のスープ(スプーンはない)とパン二切というものだった。スープの味は当時とは比べようもないが、当時を偲び大事に頂いた。この昼食は最後の日まで続いた。

 午後は、引込線の中にある空き地で坐禅をした。坐禅中は、ナチの収容者記録にある収容所でなくなった人たちの名前を東西南北に分かれ、それぞれ3人が交代で読み上げるのである。考えてみれば、坐禅と言うよりも全体での施食会といった感じだった。1人で約100人の名前を読み上げるのであるが、ヨーロッパ各地からの収容者なので、同じような綴りでも読み方が異なり、私の番のときはポーランド人の女性に助けていただいた。この坐禅を終えて一旦各自の宿舎に戻り、夕食を食べてから資料館に集まり2時間ほど全体で討論をした。討論というよりも体験発表に近いもので、強制収容所での体験者は真剣で、感情をまともに表現する方が多かった。

 以上が1日目の内容である。2日目からは朝は各宿舎で小グループに別れての討論があり、その後朝食を取ってピルケナフに出かけ午前は、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教・仏教に別れて朝課をし、その後、坐禅・経行を繰り返すのが日課となった。これが、アウシュビッツでのリトリートの内容である。 私個人として思う事は沢山あり、一言で言い表せないが、あえて言えば国際性の難しさである。本当に、海外開教を考える場合、この国際性についての理解と経験を深めないと表面的なものになってしまって、本当には根づかないのではないだろうか。


第11回世界宗教者会議
平和の集い

東京都・長泰寺副住職 大谷 有為

 去る10月5日から7日までの3日間、昨年度の第10回大会に続いて、今年度も「第11回世界宗教者会議・平和の集い」が開催された。今回の開催地には、イタリア北部に位置し、「水の都」と呼ばれる世界的な観光都市ベネチアと、ベネチアからほど近い古都パドバァが選ばれた。

 世界各国から集まる宗教者、政治関係者による講演・座談会によって主に構成されるこの会議の今回のメインテーマは、く出会いか摩擦か〜岐路にたつ宗教と文化〉である。曹洞宗からは、永平寺後堂・天藤全孝老師、そして第1回から毎年参加されている群馬県長楽寺住職・峯岸正典老師がこのテーマにそって講演された。また、SOTO禅インターナショナル会長・松永然道老師も永平寺国際部部長として、昨年度に引き続き参加された。

 最終日のファイナル・セレモニーは、世界で最も美しい大理石造りの広場といわれるベネチアのサン・マルコ広場で行われ、集まった人達全員により世界平和が祈念された。 昨年度の大会において、人と人との出会い、そして人類と宗教の出会いの必要性について講演された峯岸正典老師は、今年度は、「祈りの生活と世界平和」というタイトルで、誓願という観点から世界平和について講演をされた。要約は以下の通りである。

●「祈る」ということの根底には、「誓願・誓う」ということがある。自分がそうありたいという誓願が背後になければ、祈るということは成立しない。そして、その誓願に支えられた折りが、私達の内面に行き先を示してくれる案内板となる。私達は弱い存在であるが、祈ることにおいて、案内仮に何度も助けられながら、道を歩んでいく。

●「誓う」ということのなかには、当然「誰かと共に歩む」ということが前提としてある。また、「共に歩む」ということのなかには、「お互いに相手を尊重する」ということがなくてはならない。「尊重する」ということは「愛し合う」ことであり、「愛し合う」ということは「認め合う」ことである。「認め合う」ということは「自分と異質なものも受け人れる」ことであり、「異質なものも受け入れる」ということには、「自分自身を開くこと」が先立つ。 「自分自身を開く」ということは「自分の固定観念から離れる」ことであり、これは自分が「自由になる」ということである。「自田になる」ということにおいて、人は明るくなり、周りの人々も幸せになるのである。誓願に支えられて、一人が祈り、一人が変わっていくことで世界全体が整っていくのである。

●一人一人の個人のあり方が、世界全体の幸福形成を司っているのである。この幸福を支えるt台となる平和は、抽象的なものではない。平和は人間にとって具体的なもの、現実的なことなのである。私達も具体的、現実的に平和の構築を心がけなければならない。平和の構築は、私達が根源的に静かになり、自分を空っぽにすることから始まる。

●「禅」というのは、ただ坐っていることではない。最も必要とされていることを、最も適切な形で実現する道を意味している。そして、そのためには本当に坐りきることが必要である。なぜなら、祈るということは、ひとときだけのことであってはならないからである。むしろ、生活全体が誓願の表現としての祈りでなければならない。 そして、その生活全体が祈りとして世界に貢献するものになるために、私達は根源的に深く静かに坐らなくてはならない。

●「坐禅」は坐っている一人を本当に静かにする。この一人一人の静けさこそが世俗世界の真の平安を生み出すルーツであると信じている。なぜなら、禅の具体性というのは、一人一人ここに居るという現実から離れてはいけないということであるからである。


    開教師連絡会議レポート 
開教師会議に参加して

埼玉県・見性院副住職(北米・サンタバーバラ在住) 橋本 英樹

 去る8月22日〜24日まで、場所をロサンゼルス空港近隣のホテル、The Westinにて北アメリカの開教師会議が開催された。

 私は門外漢ながら現在米国に滞在しているということでオブザーバーとしての参加を許された。ここ半年余り、禅宗寺の行持などには度々随喜させていただいており、北米曹洞禅の教線が今後どのような方向を歩むべきなのかその動向に関心を寄せている一人でもある。

 今回の会議は、北アメリカ開教75周年記念事業が盛会裡に円成し、北アメリカ開教センター発足しての初の協議会であるため、その内容も盛りだくさんであったように見受けられる。総監部・開教センターの用意した資料は十数部と実に多く、その労苦は察するに難しくない。更にその資料の大部分は日英両語で出来ているのである。

 第一日目、午後3時より開講諷経、秋葉新総監の導師のもと、本尊上供が始まった。終って総監挨拶。この中で秋葉総監は所信を表明し、就任の抱負を語った。 この日の議案は主に75周年記念事業報告、会計報告、総監部業務報告、会計報告、開教センター経過報告、Association of Soto Zen Buddhists と総監部の関係などが話し合われた。初日の議題は報告書に添って進行し、細部の問題点や更なる協議を必要とするものは後日を期するということで、会議は円滑に流れていたように思われる。

 2 日目、午前9時議事再開。総監部理事改選が行われた。投票の結果を受けこの度理事は計10人となった。 総監部・開教センター事業方針については特に開教センター発足に伴い、初代所長に就任された奥村正博師によって詳細な事業説明があった。発足してまもない開教センターであるが、すでに年間事業計画案もよく練られており、周囲の期待と関心を寄せるこの企画は筆者にも興味あるところである。例えば、月例宗典講読会・仏教講演会、巡回布教、各時節の接心、ニュースレター発行、教材研究・作成など。いずれも次世代の北米開教を担うに相応しい事業計画である。

 昼食を挟んで、午後から理事会。これは当然理事の方のみに限られた。引き続いて午後3時より開教センター運営委員会。これも先程と同じように奥村所長によって議案が出され質疑応答によって進められた。 終っての懇談会は伝道教師や禅センターの代表を交えての和やかな雰囲気であった。ここでの話し合いは大いに盛り上がっていた。途中から伝道教師や禅センターの代表もこの場に居合わせたため会話はすべて英語に切り換えられた。日本語が話せない人が一人でも入ると言葉は即、英語に転換することは開教師の方のまじめなところで、今だ英語力に貧しい私にはそれなりに勉強になり有意義であったと思う。

 3日目、午前8時より、北アメリカ曹洞禅連絡会議。日本語が話せない方の参加もあった為、すべて英語による会議進行となった。総監挨拶、自己紹介に始まり、やがて議案へ総監部・開教センターの説明、Association of Soto Zen Buddhists と開教総監部・開教センターの関係、最後に将来の展望ということであった。終始英語による議論が展開されていたために筆者にはどうしてもその流れについてゆくことは出来なかった。これも一つ今はいい刺激となっている。英語に堪能であることはこれからも更に求められていくのであろう。日頃の自身の勉強不足を欺いた次第である。会議は午後1時に終了して散会となった。

 今回の会議に参加して感じたことは日本側(宗務庁)とアメリカ側(主に伝道教師)の意向を総監部・開教センターがどう受けとめて、よりよい方向へその前途を見出せるかということが一つ。それから総監部・開教センターの新たな組織作りということであろうか。

 ただ筆者がここアメリカに来て北米の事情を垣間見るに、アメリカは広大で、開教師や伝道教師その他宗侶の状況もまちまちであることである。独自性を重んじられるこの国で人事を把握して行くことは容易ならざる事柄であろう。こうした現状を踏まえて身命を惜しまず宗門の海外開教発展に寄与する開教師の方のご尽力に頭の下がる思いがする。今後も私なりこ一宗門人として北アメリカ開教に関心を持ち、陰ながら支援して開教の前途を祈念申し上げたいと思う。


夢中説夢
開教センター所長 奥村正博
曹洞禅ジャーナル『法眼』創刊号より抜粋

『( (1)アメリカの人々との私の修行経歴
 私が初めて京都の安泰寺で5日間の接心を坐ったのは1969年の1月のことでした。私は20歳で駒沢大学の学生でした。日本の京都にある名も知られていない小さなお寺の小さな禅堂にたくさんの外国人が坐っていたので驚きまました。

 以来、私にとって西洋の人と一緒に坐禅修行をすることは特別なことではなく、ごく当たり前のことになりました。 私が内山老師の得度を受けたのは1970年の12月8日。でした。1972年に駒沢大学を卒業し、安泰寺で修行を始めました。内山老師は、私に英語の勉強をするように勧められました。老師は海外から釆る人々に英語で坐禅修行の説明ができ、日本語から英語へ坐禅のテキストを翻訳できる人を育てることが大切だと考えられたからです。私はいやとはいえず、イギリスから来られた、鈴木俊隆老師の参禅者だった人が経営していた大阪の言語センターで英語の勉強を始めました。

 1975年に内山老師が引退された時、私はパイオニア・ハレー禅堂と云う小さな禅道場を設立するためアメリカのマサチューセッツ川に行き、禅堂を創るため、安泰寺から来た他の二人の雲水と一緒に働き修行しました。1981年までバレー禅堂におりました。

 パイオニア・バレー禅堂から日本に帰った時、内山老師からライト・トム・大通師と一緒に坐禅のテキストを、日本語から英語に翻訳するよう云われました。私達は、もとの安泰寺(1976年に安泰寺は兵庫県に移転)から近い小さなお守で3年間一緒に働き修行しました。

 1984年に私とライト・トムは、京都宗仙寺の故細川祐葆老師と渡辺耕法老師(安泰寺における内山老師の後継者)の援助により京都曹洞禅センターで翻訳作業と修行を始めました。主に海外から釆た人たちと一緒に修行し翻訳活動をし、曹洞宗宗務庁の資金援助によって5冊の本が刊行されました。

 1993年私は、片桐大忍老師が設立されたミネソタ禅メディテーション・センターにヘッド・ティーチャーとして招かれました。1996年8月まで3年間そこで修行し、同年9月三心禅コミュニティーを設立致しました。1997年4月曹洞宗北アメリカ開教センターの所長に任命されました。私が二十歳のとき初めて接心を坐って以来、私は主に西洋人、特にアメリカ人参禅者の人達と一緒に修行を続けてきました。 内山老師はいつも「私の誓願は、本物の坐禅修行者を育てる事と、すぐれた坐禅のテキストを作ること」と云われておりました。私は、老師の法嗣の一人として、老師の誓願を受け継いでいきたく西洋の人達と坐禅修行をし、道元禅師や内山老師の著作を翻訳してきたのです。 開教センター所長に就任を要請されたとき、私はその適任ではないと思いました。何故なら、私は坐禅しか知らなしからです。曹洞宗の開教活動は、もっと幅の広いものでなければならないでしょう。私は曹洞禅の寺院や禅センターで行われている坐禅以外の活動について何も知りません。

 しかし、誓願のため最終的に拒否できませんでした。私は、日系アメリカ人を対象にしている曹洞宗のお寺で、開教活動をして来た方々や、色々な禅センターや禅グループで修行をしてこられた皆様から、多くのことを学ばなければいけないと感じております。

(2)独立と共存
 私が自分の経歴について書いたのは、私の経験が70年代80年代のアメリカにおける曹洞禅サンガの一つのあり方の例であると考えるからです。私は約30年の間、主にアメリカの人々と坐禅修行をしてきたのですが、日系寺院やアメリカの禅センターとの関係はほとんどありませんでした。

 ワイツマン・メル・宗純師が、彼の文章の中に書いているように、アメリカにおける日系人曹洞サンガと、いろいろなアメリカ人サンガ、またアメリカ人サンガ同志も、長い間、80年代中半ぐらいまでだと思いますが、関わり合いがありませんでした。それぞれのグループが独立、もっと云えば狐立していたのです。アメリカに最初に来たとき、開教師としてくるのを避けました、何故なら、私達は日本の宗務庁から派遣された布教師であることを好まなかったからです。むしろ、私達は安泰寺の別院を設立するためと考えていました。 私達は他のアメリカ禅センターとの関わり合いを望みませんでした。何故なら、自分たちの修行が一番本物だと思っていたからです。アメリカ人の禅センターで行われていたことは、何かいがわしいものだと感じておりました。 80年代前半あちこちの禅センターで多くの問題がおこったのを聞いたとき、自分は正しかったと思いました。

 しかしながら、80年代中半以後いろいろな禅センターに友人ができ始めました。1984年に東京の曹洞宗宗務庁で開かれた、海外開教シンポジウムに参加して以後、私は日本の修禅寺、大乗寺、興聖寺、アメリカのグリーンガルチ禅センターで行われた、宗務庁主催の伝道教師研修所・特別接心に参加する機会を得ました。1988年から1991年まで、講義やリトリートを指導するため、いろいろな禅センターか ら日本に来た人が、京都曹洞禅センターに滞在し、坐禅修行を共にし翻訳を手伝ってくれました。ミネアポリスにおりましたときは、多くの片桐老師のお弟子さんや参禅者と一緒に修行することができ、たくさんの小さな禅グループを訪問する機会を得ました。このようないろいろな系統からの人達と一緒に修行するチャンスを適しているいろなグループの多くの指導者や参禅者と知り合いました。

 それらの出会いを通して、多くのことを学び、私の世界は広がっていきました。困難な状況の中で仏法を学び、坐禅修行をする多くのまじめな人達と出会ったのです。独立心は大切だと思いますが、孤立する必要はないと思います。

 私達がなすべきことはこちらの人々と一緒にやって行ける道を探し出すことと、仏法の参究と坐禅修行を共にし、お互いの独自性を評価し尊敬できる場所を創造することです。 健康的な自立を抜きにして健康的な関係を持つ道はありません。また、自立が孤立になってしまったら、関係を持つことは不可能です。

 曹洞宗北アメリカ関教センターの任務は、それぞれの人やグループが独立し、対等でかつ独自性を持ち、曹洞禅仏教の中のお互いが柔軟に学び合える環境を促進することだと私は思います。

 ワイツマン・メル・宗純師が彼の文章の中で問題点を取り上げています。「開教師と伝道教師は合流して一つのグループになるべきか、それともお互いの独立性を維持するべきか」「このことが我々と日本曹洞宗との関係にどのような影響を及ぼすのか」「実際に何が一緒にできるのか」「お互いに提供できる最上のものは何か、そしてそれが我々の独立性にどのように影響するのか」。これらの問題に対する最終的な答えは簡単に見つけることはできません。むしろ、早急に結論を出さない方が良いと思います。しかし、今は共に考え、話し合い、お互いに理解し合う良い時期だと思います。相互の理解を抜きにして結論を出してしまうのは危険でしょう。

 例えば、開教師と伝道教師は、簡単に日本人とアメリカ人という別れ方をしているのではありません。現在21人の開教師の内7人はアメリカ国籍、日系アメリカ人は2人、その他4人は禅センター出身で、あとの1人は、日本で得度したアメリカ人です。彼らは日本の専門僧堂で修行し、日本の宗務庁から教師資格を得ています。

 13人の開教師はアメリカ人サンガで活動しています。その主な活動は伝道教師の指導する禅センターと何ひとつ違いはありません。日系寺院に属する開教師は7人です。 開教師が指導しているサンガは、伝道教師が指導している禅センターより小さいのです。そうしてみると、伝道教師のセンターは、アメリカにおいて歴史があり、もっと確立されていると云うことです。さらに言えば、それら開教師のサンガの次の世代は、まったく伝道教師と同じ状況になります。

 また、アメリカ政府は、移民法の改正をしており、私たち宗教家でも永住権を取ることがもっともっと難しくなります。将来多くの日本人指導者が、この国に開教師として来ることは困難な状況となりましょう。

 このような状況を考えると、私は何故この国の曹洞禅協会が、二つに別れなければいけないのか、論理的かつ現実的な意味を見いだすことができません。将来、アメリカの曹洞禅サンガが一つの独立した存在となり、日本の曹洞禅仏教徒と対等で友好的な関係ができればと願っております。

(3)北アメリカ開教センターの任務
 曹洞宗北アメリカ開教センター規程による当センターの任務は以下の通りです。
 @北米社会における布教教化の推進。
 A北米における宗門寺院、禅センターの資料及び情報の収集。
 B翻訳、英語教化資料の作成。
 C各種研修会、講演会、摂心の企画、及び実施。
 D北米における寺院、禅センター、及び社会情勢の把握と、それを踏まえた教化活動の研究。
 E日本からの情報の伝達、及び資料の提供。
 F宗務庁出版物の紹介、及び配付。
 Gその他の必要な事項。
 H運営委員会(ボード)、企画委員会を組織して、上記の目標を達成していく。

 以上のような基本構想に基づいて行っていきたい。活動 は以下の通りです。

 @10月 愛知専門尼僧堂堂長・青山俊董老師による巡回布教
 禅の歴史上、あまり女性指導者の話は出てきませんが、アメリカには多くの女性指導者がおり、禅における女性の役割について度々話し合われています。
 禅における女性の指導力に興味のある方には大変助けになると思います。
 また、アメリカ国内における数名の曹洞禅の指導者による巡回布教も企画しております。異なった系統のグループや地域において、講演やリトリートを指導して頂き、日本とアメリカは、さらには、アメリカ国内の違ったグループ同志の相互理解を助けることになるでしょう。

 A色々な修行道場で摂心を行います。1997年と98年には、カリフォルニア州のロサンゼルス禅宗寺、禅マウンテンセンター(陽光寺)、タサハラ、そしてミネソタ州の宝鏡守で4回の摂心を企画致しております。日本とアメリカ両国からの参加者を僧俗問わず募集しております。摂心を一緒に行じることはお互いの理解と友好関係をより深めるのにすばらしい機会になると思います。

 Bニュースレター「曹洞禅ジャーナル」を年2回発行致します。これは日本とアメリカの曹洞禅仏教徒双方から情報を提供し、お互いの対話を促進することができるでしょう。

 C曹洞禅のテキストを日本語から英語に翻訳し出版致します。アメリカの曹洞禅仏教徒にとって助けとなる魅力的な曹洞禅のテキストはたくさんあります。私達の翻訳作業は学術的な物ではなく、ある程度実際的で一般的なものです。

(4)夢中説夢
 20年前私が何をしたかを考えたとき、私は夢の中にいた気がします。また、私が今何をしているかは、70年代に私が考えたことからすると夢のようです。

 20年後に私が何を考えているかは夢です。そして、間違いなく20年後に私が今現在何をしていたのかと思った時、夢のように感じることでしょう。私達の生活は夢の中で夢を説くようなものです。

 「この夢中説夢処、これ仏祖国なり、仏祖会なり。仏国仏会、祖道祖席は、証上而証、夢中説夢なり。この道取説取にあひながら仏会にあらずとすべからず、これ仏転法輪なり。この法輪、十方八面なるがゆゑに、大海須弥、国土諸仏現成せり。」正法眼蔵 夢中説夢

 私達が夢の話をしている時、また、夢を実現するため現実に働いている時も、私達はすでに夢の中にいるのです。私達がすべきことは、21世紀を視野に入れ、仏の法輪をこの地に転ずるよう努力を続けることだと私は信じています。


SZIだより
ワークショップ 海外開教と開教師支援について

 去る10月12日(日)・13日(月)両日、細川正善師の帰国慰労会と「海外開教と開教師支援について」のシンポジウムを熱海・ニューさがみやに於いて開催した。

 12日の慰労会には永平寺東京別院の武田秀嗣副監院をはじめ有縁の宗侶30人が出席し、永平寺の南沢道人監院、総持寺の江川辰三監院、秦慧孝老師、田上太秀教授からのメッセージも披露された。

 翌日は、早朝からSZIの活動理念の再構築を目指してシンポジウムが行われた。パネリストとして元北米開教総監部参事・桑港寺主任開教師・細川正善師、横浜・善光寺住職・黒田武志師、宗務庁人事部秘書課長・山本健善師が発表。司会進行は事務局長・福島伸悦師が当たった。

ワークショップ開催の目的

 発足から5年目を迎えたSZIは、この間、関係者だけの関心事にとどまりがちな海外開教問題を宗門全体の問題として取り組むよう啓蒙活動を展開してきた。世界情勢は大きな変革の中で目まぐるしく動いており、曹洞宗の海外開教も様々な視点から検討されなければならない。しかし、現状は宗門として海外開教に対する方向性が明確に示されているとは言い難い。各開教区でそれぞれに事情が違っていると 言うこともあり、難しい問題が山積みしている。今回のこのワークショップは、こうした内外情勢を見極めつつ、もう一度SZIの活動・事業を見直し、新たな方向性を探る意図によるものである。特に開教師支援の為の積み立て基金の活用方法を再検討し、支援のあり方を模索したシンポジウムであった。

シンポジウム

 サンフランシスコ・桑港寺の主任開教師として18年余に亘り布教活動に従事してきた細川師は、北米開教が抱えている諸問題、特に開教師・伝道師の要望するものは何かについて話した。その中で、現地での僧籍登録、個人的な布教形態から組織的な布教展開への転換、寺族も含めた経済的サポートなどの必要性を訴えた。

 横浜善光寺留学僧育英会を設立し、広く世界に活眼を開く人材育成の重要性を説いて、多くの留学僧を育て導いている黒田師は、育英会運営の経験を通して意見を述べられた。「法輪転ずるところ食輪自ら転ず」の信念から「ビジョンがあれば、お金は集まる」と説き、各禅センターと人的交流を図ることによる人材育成、海外に出たい者はどんどん送り出し、国際感覚を身につけた人材を育てること、さらに翻訳出版物の刊行、海外での徒弟研修など提案。

 宗務庁教化部で20年来、一貫して海外関係に携わってきた山本師は、国際課の開設に伴い同課長に就任し、行政面から海外布教、開教師支援に尽力してきた経験から、宗門の海外開教に対するビジョンの新構築が必要であると論じた。また、宗門の外部や檀家にも理解を求め、支援を得てはどうかと提言された。

 フロアーからも活発な意見が出された。海外布教のシンクタンク的存在になること、若い人が触発されるような魅力的な活動、閉鎖的でなく社会性のある活動、参禅指導者の育成、東南アジアを視野に入れた活動、海外布教を理解してもらうための世論形成や環境作りを求める声などが上がった。

 事務局としては、これらの意見・提言をもとに今後の活動に生かしていきたい。




Return