第4号 1995年3月15日


主な内容
「いまここに微笑む」

 ほほえみは、とても重要なことです。日常生活において、ほほえ むことができ、平和で、幸せであることができたなら、私たちばか りでなく、すべての人がそこからよい影響を受けます。これが、もっ とも基本的な平和の仕事なのです。  (「ビーイング・ピース」より)


 ヴェトナム生れの詩人・仏教者 ティック・ナット・ハン師を迎えて

SZI会長 松永然道

 タイの上座部仏教の中にかなり以 前から新仏教ムーブメントが起きて いる。最近はその動きが確かなもの になり、自らも開発僧と名乗って村 起こし(植林、農業改革、学校教育、 平和運動)のリーダーとして活躍し ている。この動きは周辺の国、特に カンボジアやラオスにも影響を及ぼ し国造りの原動力になっている。

 ヴェトナムでは、今回講演を頂く ティク・ナット・ハン師がヴェトナム 戦争時代より民衆の為の平和運動を 行ってきた。ヴェトナムは大乗仏教 であるが、師の説く非暴力の平和運 動は旧南北両政府に入れられず祖国 を追われた。以来、亡命の地パリを 拠点にして、大乗仏教の理念による 平和と禅を説いて欧米を中心に活躍 している。アメリカではチベットの ダライ・ラマと並び地球仏教の指導 者と評価されている。

 宗門はいま、人権、平和、環境を テーマに両祖の禅こそが地球仏教で あるとして、さらに衍し深めようと している。この時期にティク・ナッ ト・ハン師を迎え交流出釆ることは、 この上ない好縁と思われる。われわ れのテーマへの進一歩の為にも、五 月九日の師の講演に広く江湖のご参 加を頂きたいと願うものである。


Thich Nhat Hanh

 ティク・ナット・ハンは、1926年生まれ。ヴェトナム戦 争に対し、「行動する仏教者」の一人として非多力・平 和を訴え、その結果亡命を余儀なくされました。1973年 以陣、彼はフランスに在住し、難民救援活動に携わる いっぽう、欧米の人々に仏教思想のエッセンスを伝え ることに心をくたいています。平明で、美しい魂に響 く言葉と、現代人向けに工夫されたやさしい瞑想法に よって、彼の思想は多くの人々の共感を得ています。

 そしていま、地球レベルの諸問題・環境破壊、南北 問題、核、戦争などーに対応するための思想・行動の体 系として全世界的に仏教が注目され、「地球仏教」とい う概念が生まれるに至っていますが、ティク・ナット・ ハンは、ダライ・ラマと並ひ、その代表的指導者として 評価されています。

 みずからと世界の平和を、この一歩から。


ティック・ナット・ハン師を知る

北米加州オークランド 好人庵主任開教師 秋葉玄吾

 フランス在住のベトナム禅僧、 ティク・ナット・ハン師はこの四月 下旬、予てよりの希望であった訪 日を遂されることになった。マイ ンドフル・プロジェクトが昨年七 月組織され、仏教に関心を持つ若 い人々が中心になり、師の日本招 聘のための様々の準備が調えられ つつある。

 SZIでも師の東京講演会を主 催されることになった。(大変意 義深いこととSZIの御努力に拍 手を送ります。)それに関連し、 当紙(昨年11月号)上に師のこ とが紹介されていた。その他、日 本ではほとんど知られていなかっ た師へのガイトラインが多く見ら れるようになった。殊に宗門の藤 田一照師(アメリカ・マサチュー セッツ州ヴァレ禅堂主管、今回の 東京公演の通訳)が大法輪二月号 に書かれた「ティク・ナット・ハン 師のこと」が最も要を得て簡素、 明解な師の紹介文となっている。 (関心を持たれる方は御参照下さ い)

 私がティク・ナット・ハン師を知っ たのは五、六年前、参禅会に来て いた室さんという著作家に「英語 の勉強をするなら良いテキストが 有りますよ」と教えられ、また、 丁度同じ頃、棚橋一晃氏(師の 「ビーイングピース」を日本語訳、 正法眼蔵の名英語抄訳などの翻訳 作品をもつ活動家)よりティク・ ナット・ハンという今欧米で最も 敬愛されている仏教指導者の英訳 本の講読会を開いているから参加 しないかと奨められてからであっ た。

 両氏とも「アメリカで布教し ようという禅のお坊さんならティ ク・ナット・ハンの本を読むべきで すよ、非常に新鮮で平明な禅仏教 の展開を説いていますよ」という 意味のことを言っていた。

 私はさっそく近くの師の英訳本 の出版社パララックス・プレス社 へ行って、師の本を二冊程頂いて 来た。社長のアーニーとその奥さ んはタサハラ禅マウンティン・セ ンターでの同安居者だった。彼は 師の隔年毎の北米講演でのひとつ を聴き、大変感銘を受け、以来師 のリトリートに参加し、すっかり 心酔し、師の英訳本出版を手掛け るため出版社を興したのだ。私は アーニーから多くの師についての 知識を得た。

 私は師の平易な英文の語り口は 英語の勉強にちょうど良いと読み はじめた。好人庵の参禅者の中に も師を知り、その本を読んでいる 人が幾人か居た。みな一様に、「み ずみずしく優しい詩人の感性と知 性を備えた師は、深い仏教のお教 え、その実践法をきわめて日常的、 具体的な事例の中で、判り易く美 しい語り口を用いて説かれている が、なぜそうなのか考えてゆくと 結構難しい。けれどなにか感動的 で心を動かす力がある、皆で師の 本を共有したい」と言った。

 そこで好人庵でも五、六人で三ヶ月程週 一回の講読会を開いて「タッチン グピース」を読んだことがあった。

 師のどの本も、般若、華厳、唯識、 倶舎などの思惟を見事に日常底 の実践法へ収斂し、しかもごく 平易明断に語る。また青少年向 けの仏教説話の作品もある。特 に「古い道、白い雲」はブッダを 物語る麗わしい大冊傑作である。 私は、師の本は、日本の若い世 代の人々が仏教について知り、 感じ、考え、日常生活の指針と して生かすための、最高の手引 き書となると思ってきた。

 一九九四年の夏、師はカリフォ ルニア講演・リトリートのため 西海岸においでになった。サン フランシスコ市のグレース・力 テドラルという太きな教会で講演 を行なった時、私ははじめて聴き に行った。カテドラル内は2000人 を超える聴衆で満員、静かな熱気 の伝わる平和な雰囲気に充ちてい た。師の秘書役・真空師という尼 僧さんのベトナム声明か人る。法 話の途中幾回か、例のマインドフ ル・ベルが鳴り全員が深い呼吸を 行うという講演形式であった。

 ベトナム戦争を経験した師の祖国の 苦悩から生み出された師の枢要な メッセージ、「エンゲージド・ブッ ディズム」を説く言葉は、聴衆に 対し、日常活動のひとつひとつに 落ちついた、しかも生き生きとし たまなざしをもった注意力を向け よ、と励ましておられた。

 講演後、主催者アーニーに紹介 されて直接師の温顔を拝した。私 は現代の菩薩を目の前にする思い だった。 そして.2日後、私は再び、 ロスバドレスの山ふところ、オン ヤイというベトナム人の山寺での 師のリトリートへ行った。5、6 百人の人々が、木に囲まれた広場 に坐り小鳥のさえずり、あたたか い風の感触を楽しみながら、師の おだやかな、かつ心にしみる声に 耳を傾ける光景を目にし、霊鷲山 の説法もかくやとばかり思う深い 感銘を受けた。

 この二度の師との相見の時、私 は、師の非常に判り易い言葉であ りながら、ブッダの教えに新しい 生命を吹き込み、活々とした理解 をもたらす著作を、日本の若い人々 に紹介しなければなりません、ぜ ひ日本へ行ってダルマの生活をお 話しして下さい、と力説した。師 は、慈眼を注いで「私は何処でも まいります。多くの人に仏の教え のすばらしさを知って欲しいので す。」とおっしゃっていた。

 幸い師の素晴らしさを日本人と していち早く知った棚橋氏や中野 民夫氏(招聘実行委員代表)その他 師の教えに感銘を受けた人々の尽 力、又SZIの皆様の参加により、 師の日本訪問が実現の運びとなり、 大変有意義な仏教の国際交流が計 られることになり、期待をもって 師の訪日を待っております。

 宗門の皆様が深く関心を持たれ、多大 の御支援を賜ることを念じます。


ハワイ・北米・南米開教総監を囲んで

 去る一月十七日(火)、東京グランドホテルに於いて、総監会議出席のため来日されたハワイ開教総監・ 松浦玉英老肺、北米開教総監・山下顕光老師、南米開教総監・森山大行老師を迎えて、大山陽堂・SZl副 会長と各開教地での現状並びに将来の展望等に関して、お話をうかがった。話の要約は次の通りである。

1 言葉の問題について 英語圏、ポルトガル語圏での開教について、今 後も日本からの開教師は 必要であろうか。

・将来は、現地の開教師が育つ ことが望ましいが、現状ではまだ 日本からの開教師に頼らなければ ならない。日本からの開教師の条 件として、現地の言葉、文化を理 解して欲しい。現在、三開教区と も優秀な現地の開教師を育ててい るが、絶対数がまだまだ足りない。

 現地の人を育てるにあたって、ハ ワイと北米、南米とは違っている。 ハワイの場合、僧侶の資格等に関 して、現地で養成する場合の条件 をどの様に宗門と調整するかが問 題である。北米・南米は、僧侶資 格に関して、日本と同じように宗 制にそって養成している。それら の得度者は師匠の日本の僧籍地に 登録されている。

 開教師としての資格を得る場合、日本に安居しな ければならない。しかし、現地の 人を養成するにあたっては、現地 の指導者に任せるようなシステム に変えていかなければならない。

 この問題は、総監会議、開教師連 絡協議会等で問題提起されている が進展していない。宗制に関して は、宗議会議員各位のご尽力に頼 らざるを得ない。

2 生活保障について  寺院運営は日本の寺と は逢うようだが、どのよ うになっているのか。

・海外では寺院運 営はメンバーの人た ちが責任を持つ。だ から開教師は月給 (開教区によっては 宗教活動以外からの 場合がある)を得て、 布教教化に専念する ようなシステムになっ ている。

 「学道を志すものすべからく貧 なるべし」といって も、寺族の収入に頼 らざるをえず、実際 の生活は大変である。

 日本であれば、他の 寺院への随喜、托鉢 かできるが海外では そうはいかない。社会基盤がまったく違う。開教師が 努力しても、経済的な苦労が耐え ない。

 現地では、社会保険、健康 保険、リタイヤメントに関して対 策が講じられているが、日本から 派遣する以上、開教師の生活の保 証が欲しい。

*各総監とも到着したばかりで大 変お疲れの様子でしたが、貴重な ご提言等を戴きました。SZIの 会合等で我々の問題として共に考 え、より多くの人たちに働きかけ ていきたいと思います。この紙面 を借りて三総監にお礼申し上げま す。


ネブラスカ禅堂開単を通して 正法を伝える大切さ
岐阜県正宗寺住職 原 田 道 一

 日本列島の極寒地の北海道を除 いて飛騨のこの地は、内地一番の 厳寒地であろう。この寒さが、法 を伝え、文化を育てているのだと つくづく思う。

 六十歳の還暦、猪年である拙僧、 山寺の朝を土蔵を改築した禅堂で 迎えることができた。坐に本当に 親しむようになった直接のきっか けは、昭和五十二年秋、故片桐大 忍老師を北米ミネソタの地に訪 問し、相見したことに始まる。 「十五日以前を問わず、十五日以 後を問う」ならば、まさしく晩秋 のミネソタを訪れた日は、大切な 時であり、初発心の日であった。

修行のやり直し

 翌年六月、故片桐老師のご支援 により、北米のど真中、ネブラス カ川オマハ市にある小さな禅のグルー プに招れて、単身でオマハの空港に 降り立った。大学教授の家に居候し ての参禅指導、英語のできない日本 僧が日本語のできない米国の家主に 世話になり、五日間の接心を含めて 一ヶ月全身全励の体験であった。

 以後、夏冬数回ここを訪れた私は、 大変なことに気付いた。素人のくせ に、禅の修行もちゃんとしないくせに、だれかに何か を教えてやろうなんてケチなこと を考えたばっかりに、息がだんだ ん続かなくなってきたのである。 私は気負いということに気付いた。 気負ってやったことは、どんなに いいことの様に見えても、それは その人の、その人らしいものでは ないということに気付いたのだ。

 というのは、アメリカの人たち が、あまりまじめに修行なさるの で、だんだん恐くなってきたので ある。そして、とうとうネブラス カ禅センターの開単式をしたその 年を期として、以後渡米を中止し てしまった。そして、飛騨高山の 山寺の土蔵に坐り、京都の毎月一 度の内山興正老師の正法眼蔵の講 話をはじめ、参師問法の再出発、 修行のやり直しを始めた。

 私が一番気を付けなければいけ ないと思ったことは、修行は見せ ものではないということ。人の見 ていないところで修行するのが基 本なのに、私は、修行を人との関 わりあいの中でやるという方に中 心を持っていた。そして、自分の 内面の力が蓄えられていないとい うことに気付いたのである。

正法を伝えることの大切さ

 アメリカで経験したことは、英 語ができなくても一緒に坐ること はできる。坐るということはあり がたいもので、目と目を合わせれ ば大体のことはやっていけるとい うことであった。「これならかな りのことまでできる!」と。と ころが、とんでもないことも起き るのであった。

 接心中、応量器(略器)を使っ ての朝食時、私はうっかりオート ミール(お粥)を自分の膝の上に こぼしてしまった。急いでそれを 指でつまんで食べたのだが、それ を見ていた彼らは、各々が順番に 自分の膝の上にお粥を落して、つ まみ上げて食べたのであった。

 こんなに純真な人たちをだまし たらいかんなということを思い知っ たのである。おのれの力量の不足 と正法を伝えることの大切さを思 い知らされたアメリカ体験であった。


 ペンシルベニアより- 刑務所の中の坐禅会
ペンシルベニア平等山禅堂   主任開教師 べナージュ・大円

 二十三年間の日本生活の内の十 一年間の僧堂生活を終え、一九九 〇年、私が学んだ道元禅師の教え を一人でも多くの人に広めること が出来たらと思い、母の住むアメ リカに戻る決心をしました。しか し、尼僧としてアメリカの地でやっ ていけるのか、とっても心 配でした。なぜなら、乞食 は、アメリカの法律で禁ぜ られているから、どうして も他の仕事をさがして働か ねばなりません。でも剃髪 している身ではどうするこ とができましょう。

 そうこうしているうちに、 私は、フィラデルフィアに あるペンデルヒル・クウエー カー・スタディー・センター へ、坐禅指導するために招 待されたのです。そこは、 一九六〇年代にアメリカで 一番最初に行なった接心と され、それを指導したのは 臨済宗の安谷白雲老師でした。ど うやって家賃を払ったら良いかも わからずに、その話を承諾してし まいました。

 そして、早速、母の 住む隣の二〇〇年も経つクウェー カー教徒のアパートメントを借り ることにしました。後にそのアパー トメントは平等山禅堂となるので すが、次第に多くの人々が、くち ずてにフィラルディルフィアの地 域から車で三時間もかけて週末の 坐禅会にやってくる様になりまし た。そんなとき、私の母は、応量 器を包む袱紗にアイロンをかけた り、仏様に花を供えたり、参禅者 に挨拶をしたり、*行者のように 私を支えてくれました。

 このように次第に、私たちの小っ ちゃな禅堂で坐禅をしたいという 人たちから便りをもらうようにな りました。それらの中の便りの中 に、これにはびっくりしたのです が、刑務所の男の囚人からの手紙 がありました。それは坐禅指導を してくれというものでした。しか し、その時、私は車をもっていま せんでした。そこで、地元の教会 や、ウイメンズクラブなどで講演 をさせていただく折に、囚人たち からの手紙を紹介しました。する と「大円さん、この小切手で四つ のタイヤでも買って下さい」とい うようなメモを添えて、中古車を 買うためにと寄付が集まりはじめ ました。

 そして、毎週月曜日の夜、私は、 重刑犯罪音の刑務所に訪問するよ うになりました。そこは、三十年 から多種の終身刑にいたるまでの 囚人たちが監獄されているところ です。もちろん私はボランティア でしたが、囚人たちは、自分たち のタバコやポテトチップを買うた めのお金を蓄め(彼らは、刑務所 の中の工場で働きますが、時給25セントです)、 ガソリン代として小切手を送ってくれました。 私は、まるで托鉢をしているかの ように感じられ、本当に彼らの贈 り物に感謝するばかりでした。

 しばらくすると、軽犯罪者の為 の刑務所で坐禅の指導をしてくれ るようにと政府から依頼され、謝 礼を戴くようになりました。最初、 私は、この契約に対して余り良い 印象を持ちませんでしたが、「大 円さん、アメリカ政府が契約する ぐらい坐禅がとても重要だと考え ているんだよ」と参禅者たちが言っ てくれたので、その話を引き受け ることにしました。

 軽犯罪者の為の刑務所では、あ る意味で指導することが非常にむ ずかしいです。なぜならば、そこ にいる囚人たちは刑務所の生活が はじめてだからです。中国本土の ように遠く離れた外国から来たも のや、多くは家族から離れ、心の 傷を持った人たちだからです。そ して、彼らは予告なしに他の刑務 所にしばしば移動させられます。

 両方の刑務所はとってもうるさ いところです。私たちはそのよう な騒音の中で心の平安を見出さな ければなりません。出所するとき に、その囚人たちは、帰って住む 家の近くに坐禅するグループがあ るかないかさがします。くちずて に他の囚人もまた坐禅指導をもと めます。また、警備員でさえも興 味を示すように坐禅が求められて いるのです。ペンシルベニア郊外 二十五マイル半径内に七つの連邦 刑務所がありますが、その中には 死刑囚のいる女性刑務所も含まれ ています。

 今日病めるアメリカ社会では、 なにかが起きる前に手を差し伸べ ることがより重要であります。最 近、十四・十五歳の女の子が何人 か、美術館で行なった坐禅会にやっ てきました。彼らは仲間に笑われ るかも知れませんが、この坐禅会 に出席するためにやってきました。 そして、「どこへ行ったら心の平 安を見い出せるのか? 学校は ダメだし、両親はいつも叱ってば かりいるし、どうしたら心の平安 をみつけることができのか?」 と懇願するのです。

 刑務所での活動と同様に、まっ たく広範囲なアメリカの生活の中 で、私は坐禅をすることによって、 心の奥深い内面の要求に答えられ るようにしたいと思っています。 そして将来は、だれもが自由に坐 禅ができるような古い農場、或は 狩猟小屋を見つけ、母と共に仏道 に精進していきたいと思っていま す。
(翻訳 事務局)


ミネソタ釣月宝鏡寺建立計画
主任開教師 奥 村 正 博

 一八九三年、日本の仏教ははじ めてアメリカ合衆国に紹介された。 それからしばらくして、日系移民 を主な対象とした開教が、ハワイ やカリフォルニアを中心にはじま りました。しかし、日系以外のア メリカ人に対する坐禅修行中心の 教化活動がはじめられ、各地に禅 センターができはじめたのは、一 九六〇年代のことです。まだ、三 十年余りの歴史しかありません。

 故片桐大忍老師は、一九六三年 に渡米されました。アメリカに坐 禅修行を伝えられた先駆者のお一 人です。ロスアンゼルス禅宗寺、 サンフランシスコ桑港寺、サンフ ランシスコ禅センター等で開教活 動に従事されたあと、一九七二年 に小さなグループの願 いによって、中西部ミ ネソタ州のミネアポリ スに移られ、ミネソタ 禅メディテーションセ ンター・耕雲山願生寺 を創設されました。以 来、全米でも代表的な 禅センターの一つとし て知られるようになり ました。

 一九七八年には、ミ ネソタ州東南部のミシ シッピー川の近く、丘 陵と谷とが続く大自然 の中の美しい地域に、 280エーカー(113.4ヘクタール)の 土地を購入され、本格 的な参禅道場を建せされることを 発願されました。そこを釣月山宝 鏡寺と名付けました。最初は、陸 軍のテントを坐禅堂として使い、 夏安居を行ないました。しかし、 雨が降るとテントの下から雨が入っ てきて、多くの坐蒲が水に使って しまいました。そこでこのテント を張るためのプラットフォーム (基壇)を造り、それが後に、現 在の禅堂の床になりました。坐禅 堂はメンバーの大工によって、宝 鏡寺境内の樫の木をきり、自分た ちで製材して建てました。それ以 後、冬期を除いた三季節に使用可 能の台所、シャワールーム、東司、 方丈キャビン、作業場などを建て て参りました。しかし、まだ宿泊 施設がありませんので、参禅者は それぞれ、自分のテントで寝泊り をしております。

 故片桐老師は、庫院、僧堂及び 衆寮が、恒久的な道場建立の第一 段階だと考えておられました。 こ れまで、アメリカ国内からの浄財 によって、宝鏡寺境内地購入の支 払いを済ませ、最初の建物を建築 致しました。老師は、何人かの弟 子たちと日本で托鉢をして、建築 進行の資金にしようと望んでおら れました。しかし、その完成を見 ることなく一九九〇年三月、癌の ため六十二歳で遷化されました。 アメリカの仏教にとって大きな痛 手であります。片桐老師御遷化後 も、遣弟及び俗弟子の人々によっ て、願生寺及び宝鏡寺は護持され、 私共は三年間毎年、日本各地で托 鉢をして、多くの方々から浄財を 寄せて戴きました。

 アメリカの仏教が真にアメリカ のものとなるためには、この国で 指導者を養成できることが不可欠 であります。故片桐老師が宝鏡寺 僧堂建立を発願されたのも、それ が眼目であったと推察致します。 叢林での大衆一如の坐禅修行を抜 きにしては、道元禅師の仏法が伝 えられていくことは不可能かと存 じます。また、在家の参禅者の人々 にも、恵まれた自然の中で自己に 親しむ参禅の場を提供致したく存 じます。

 故片桐大忍老師の僧堂建立とい う生涯の念願をひきつぎ、アメリ カ国内において努力して参る所存 です。しかし、なにぶん、仏教全 体の支持基盤がまだまだ小さく、 日本からの援助なしでは不可能な のが現状であります。 何卒、趣旨をご理解戴き、釣月山 宝鏡寺道場建築進行に御助力の程、 お願い申し上げます。


ワンボールネットワーク ミネソタ

 岐阜県・正宗寺住職・原由道一老師より、ワン・ポール・ネットワークを発足し、 ミネソタ禅センターを支援していきたいという提案を受けました。 SZlはその趣旨に賛同し、応援していきたいと思いますのでここにご紹介いたします。

ワンボール・ネットワークとは?
岐阜県・正宗寺住職 原 由 道 一

 一鉢(托鉢用応量器)を縁とし た草の根運動です。  地球禅仏教の原点を釈迦牟尼世 尊が示された托鉢「頭陀行」の実 践に学び、草の根の交流を願う。 特に、ミネソタ禅センターの道友 を精神的に、物質的に援助しなが ら、今我々が、お互いの初心を確 かめあい独坐に円通することを目 的とします。

 昨年秋、ミネソタ禅センター王 管・奥村正博師に京都でお会いし て、最近のミネソタの様子を拝聴 することができました。私にとっ ても大切な教えをいただいた故片 桐大忍老師のご苦労を存じあげて いるだけに、何かお役に立つこと はないかと思っていました。そこ でいろいろな方々に相談申し上げ た結果、具体的には一万円の協賛 金を戴いた方に、飛騨高山特注の 千巻製応量器を郵送し、実費を引 いた残りの五〇〇〇円をミネソタ 禅センターへの浄財にと考えまし た。この応量器は楢崎通元老師の 指導で作成し、老師には托鉢の禅 画と解説を戴きました。

 地方の草の眼運動が今の、変革 期に大切であると思っています。 このワン・ボール・ネットワークの 運動理念は、マリリン・ファガソ ンの「アクエリアン革命」による ものです。以下引用いたします。 心の変革を成し遂げた個人が あちこちに生まれ、互いに知 りあうことがなくとも目にみ えない連帯となって広がり、 やがて世界全体を変革してい く、新しい規範が登場し若い 人たちが、その意味を認めは じめる。そして、その数があ る一定の数を越えると、大規 模に規範が移りはじめる。新 しい見方を受け入れる人々が 増え、それが社会のコンセン サスになる。

透明な知性を持った人たちによる呼吸運動

 小さなグループの中に、人々 がます、自分自身を変革し、 それからお互いに励ましあっ ていく。決して自分の考えだ けに狂信的にしがみつかす、 感傷的にならす、他人を高め ながら現実からの遊離もせず、 規律を守りながら縛ることもせ す、その中で、社会が変革に 向かって動いていくのだ。

 無力で何人の賛同が得られるか わかりませんが、経済大国日本ら しからぬ小さな浄財で心を通わす 方法を願っています。ご意見、ご 賛同をお願い致します。
事務局 〒506−21
岐阜県大野郡丹生川村正宗寺山内
ワン・ポール・ネットワーク・ミネソタ  代表 原田道一
TEL/FAX 0577-78-1080


鉢盂(ほう)=法=宝

お釈迦さまの根本精神を貫く 生き方は「托鉢」です。 「拈華微笑」の話で知られる 迦葉尊者を後継ぎにされたのは 頭陀行第一(衣食住が少欲・知 足に徹した方)であられたから です。日本で諸芸道の奥伝を 「衣鉢を継ぐ」というのは、この 佛心を受けているからでしょう。

 永平寺の道元禅師は、「お釈 迦さまから達磨さまへと代々伝 えられた佛心(正法眼蔵涅槃妙 心)が「袈裟・鉢孟である」と 教えておられます。お釈迦さま は、自然と共に生きる目標とし て「蜂が花の蜜だけを探って、 色も香りも損なわないような、

 清らかな生き方をせよ」と自ら 八十年を示されました。お釈迦 さま、道元禅師をこよなくお慕 いになった良寛さまも「かつて 高僧伝を読む、僧は清貧を可と すべし」 を生涯守りぬかれた古 佛でした。

 僧堂では、鉢盂(応量器)を 使う時「三輪空寂」施者・受者・ 施物が清らかなことを念じます。 坐禅のかたちも、こころも自 利利他・平等利益を表します。 出入の呼吸・法界定印の手を 差し出した「お頂戴の形」、合 掌して「いただきます」の言葉 は、日本の美しい風習になって います。
【文 楢崎通元老師】


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